「終わりと始まり」 ヴィスワヴァ・シンボルスカ(Wisława Szymborska)




戦争が終わるたびに
誰かが後片付けをしなければならない
何といっても、ひとりでに物事が
それなりに片づいてくれるわけではないのだから

誰かが瓦礫を道端に
押しやらなければならない
死体をいっぱい積んだ
荷車が通れるように

誰かがはまりこんで苦労しなければ
泥と灰の中に
長椅子のスプリングに
ガラスのかけらに
血まみれのぼろ布の中に

誰かが梁を運んで来なければならない
壁を支えるために
誰かが窓にガラスをはめ
ドアを戸口に据えつけなければ

それは写真うつりのいいものではないし
何年もの歳月が必要だ
カメラはすべてもう
別の戦争に出払っている

橋を作り直し
駅を新たに建てなければ
袖はまくりあげられて
ずたずたになるだろう

誰かがほうきを持ったまま
いまだに昔のことを思い出す
誰かがもぎ取らなかった首を振り
うなずきながら聞いている
しかし、すぐそばではもう
退屈した人たちが
そわそわし始めるだろう

誰かがときにはさらに
木の根元から
錆ついた論拠を掘り出し
ごみの山に運んでいくだろう

それがどういうことだったのか
知っている人たちは
少ししか知らない人たちに
場所を譲らなければならない そして
少しよりもっと少ししか知らない人たちに
最後はほとんど何も知らない人たちに

原因と結果を
覆って茂る草むらに
誰かが横たわり
穂を噛みながら
雲に見とれなければならない





「子どもと本」谷川俊太郎



子どもよ
物語の細道をひとりでたどるがいい
画かれた山々を目で登りつめ
洞穴の奥の竜の叫びに耳をすますがいい

子どもよ
本の騎士と戦いの本の王女に恋するがいい
煮えたぎる比喩の大鍋の中の
昨日にひそむ今日をむさぼり食うがいい

子どもよ
意味の森で迷子になるがいい
修辞の花々に飾られた小屋に逃げ込み
魔女に姿を変えた母親に出会うがいい

そして子どもよ
なんどでも本を破り捨てるがいい
言葉の宇宙を言葉のたてまで旅して
ふたたび風船ガムをふくらますがいい


「ここ」 谷川俊太郎



どっかに行こうと私が言う

どこ行こうかとあなたが言う

ここもいいなと私が言う

ここでもいいねとあなたが言う

言ってるうちに日が暮れて

ここがどこかになっていく





「肩」寺山修二



肩は男の丘である
その彼方には過去の異郷がある

肩は男の防波堤である
いくたびも人生に船を見送った

肩は男の翼である
ひろげてももう飛ぶことはできない

肩は男の詩である
さびしいときにも定型を保っている

肩は男の酒場である
いつも誰かの手が憩う

肩は男の水平線である
だが もう鳥などは発たすな!

さらば 友よ





「なんという幸せ」 ヴィスワヴァ・シンボルスカ(Wisława Szymborska)


なんという幸せ
自分がどんな世界に生きているか
知らないでいられるのは

人はとても長く
生きなければならないだろう
世界そのものよりも
断固としてずっと長く

せめて比較のためにでも
他の世界を知らなくては

人をしばり、厄介なことを
生み出す以外には
何も上手にできない
肉体の上に飛び上がる必要がある

研究のために
図柄の明快さのために
そして最終的な結論のために
時間の上に舞いあがること
この世のすべてを疾駆させ、渦巻かせる時間の上空に

この見晴らしから
些細なものたちに、ちょっとした挿話たちに
永久の別れを言おう

ここからならば、一週間の日数を数えるなんて
無意味な行為に
見えるにちがいない

手紙を郵便ポストに入れるのは
愚かな青春のいたずらに見えるし

「芝生を踏むべからず」の注意書きは
狂った注意書きに見えるはず





「老いたるえびのうた」室生犀星



けふはえびのように悲しい
角やらひげやら
とげやらいっぱい生やしてゐるが
どれが悲しがつてゐるのか判らない。

ひげにたづねて見れば
おれではないといふ。
尖つたとげに聞いてみたら
わしでもないといふ。
それでは一体誰が悲しがつてゐるのか
誰に聞いてみても
さっぱり判らない。

生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋
からだじうが悲しいのだ。




「ほぐす」 吉野弘



小包みの紐の結び目をほぐしながら
おもってみる
― 結ぶときより、ほぐすとき
すこしの辛抱が要るようだと

人と人との愛欲の
日々に連ねる熱い結び目も
冷めてからあと、ほぐさねばならないとき
多くのつらい時を費やすように

紐であれ、愛欲であれ、結ぶときは
「結ぶ」とも気づかぬのではないか
ほぐすときになって、はじめて
結んだことに気付くのではないか

だから、別れる二人は、それぞれに
記憶の中の、入りくんだ縺れに手を当て
結び目のどれもが思いのほか固いのを
涙もなしに、なつかしむのではないか

互いのきづなを
あとで断つことになろうなどとは
万に一つも考えていなかった日の幸福の結び目
― その確かな証拠を見つけでもしたように

小包みの紐の結び目って
どうしてこうも固いんだろう、などと
呟きながらほぐした日もあったのを
寒々と、思い出したりして




「秋の夜の会話」 草野心平



さむいね

あぁさむいね

虫がないているね

あぁ虫がないているね

もうすぐ土のなかだね

土のなかはいやだね

痩せたね

君もずいぶん痩せたね

どこがこんなに切ないんだろうね

腹だろうかね

腹とったら死ぬだろうね

しにたかぁないね

さむいね

あぁ虫がないているね







「東京羊羹」ねじめ正一



ブ男。ブ男の私はブ男だからブ男だ。背が高くてがっちりしているブ男は大男のブ男だが、ブ男の私は背の高さはふつうの高さのブ男だからブ男の中では中途半端なブ男だ。大男のブ男は異様である。異様なブ男だから畏怖される。畏怖されるブ男だから目を背けられる。しかし中途半端なブ男は畏怖もされず目も背けられず、観察力発揮する他人の眼差しの反射を受けて内省的なブ男の深みにはまっていく。私はブ男だ。ブ男の深みにはまったブ男だ。しかし私はブ男に安住するブ男ではない。その証拠にブ男の私はいつも東京羊羹を書類カバンに入れている。東京羊羹には小豆と砂糖と混じりあうと繊維質のマニアを誇張する黒丹母と呼ばれるタラコ唇直す成分が含まれているし、豚並みの鼻の穴を少しでも小さくできるフレオコビンと称する成分も含まれているし、ブ男の妬み、嫉み、自己顕示欲をやわらげるクノプソンと呼ばれる精神を安定させる成分も含まれているので、タバコが吸いたくなったら東京羊羹を食べる。コーヒーを飲みたくなったら東京羊羹を食べる。食事がわりに東京羊羹を食べる。食後のデザートに東京羊羹を食べる。三時のおやつに東京羊羹を食べる。酒の肴に東京羊羹を食べる。オナニーする前に東京羊羹を食べる。オナニーのあとにも東京羊羹を食べる。寝る前に東京羊羹を食べる。寝ながら東京羊羹を食べる。寝起きに東京羊羹を食べる。合計すると一日六本は食べる。多い日は一日に八本半食べる。医学博士・赤坂病院長・牛山正大先生の研究論文「タラコ唇治療における東京羊羹の臨床効果ならびにその副作用について」によると、タラコ度5(重度)のタラコ唇と認知される十六~四十五才のブ男二十四名に東京羊羹一日五百グラムを投与した結果、二年間連続投与によってタラコ度0に改善された例1、同1、同3が8、同4が7、変化なしが6例であったという。医学博士田所倫太郎先生の昭和十三年に発表された「鼻の穴とナチズム」という恐るべき論文の真ん中あたりにブ男の鼻治療である東京羊羹についてちょっと載っているだけで、それ以後誰にも研究されていない。ブ男の妬み、嫉み、自己顕示欲についてはアメリカフェミニズムの研究者であるオルカ・ベェテイ女史が一九八二年に「驚くべき東京羊羹」という論文を書いているが、封建的な日本男性を罵るあまりに東京羊羹に対する突っ込みが足りなくてブ男の研究としてはまだ成果があらわれるには至っていない。しかしブ男の私は東京羊羹を信じる。まだ東京羊羹の食べる量が少ないのかもしれない。効果があらわれにくいブ男の体質なのかもしれない。タラコ唇。豚並みの鼻。妬み。嫉み。自己顕示欲。だから私は東京羊羹の製造元に注文をして、毎月第一火曜日に六十本入りのダンボールニ箱をペリカン便で送ってもらうことにしている。ブス、ブ男。ブ男。ブス。ブ男。ブス。ブス。ブス。ブ男。ブス。ブ男。男のブスはブ男だ。女のブ男がブスなのではない。女はブスがブスとして自立している。ブスはブスをバネにしてブスを東西南北にずらすことができるが、ブ男のつらいのはブ男をバネにしてもブ男が微塵もたじろがないことだ。ブ男はブスよりも自立していないからだ。ブ男。ブ男の私はブ男だ。ブ男の私はブ男だからブ男だ。自分のブ男さを忘れようとカントの純粋理性批判を読んでも却って脳ミソからにじり寄る妬み、嫉み、自己顕示欲の素をつくり出すフェミナロンの圧力で顔がむくむ。ブ男に拍車がかかる。ブ男に拍車がかかる。愛せるが、愛してくれない。ブ男に拍車がかかる。私は東京羊羹を食べる。ブ男の私は東京羊羹を食べる。中途半端なブ男の私は東京羊羹を食べる。タラコ唇。豚並みの鼻の穴。妬み。嫉み。自己顕示欲。ブスは東京羊羹を食べない。愛せるが、愛してくれない。ブ男の私は過去に一度結婚したことがある。愛なき結婚。いや、私は愛していたが女は私を愛していなかった。結婚したからといって同居する必要はないし、結婚したからといってセックスしなければいけないわけではない、と女は言った。結婚ってそんなにつまらないものじゃない、そうでしょ、と女は言い、私がうなずくと、二週間後に女から電話がかかってきて「離婚します」と言われた。あなたを愛していないことがわかったからだと女は言ったが、そういうことは結婚する前にわかっていて欲しいものだ。私がブ男なのに目が眩んでわからなかったのだろうか。東京羊羹を食べる。セックスするとブ男が伝染ってブスになるとでも思ったのだろうか。東京羊羹を食べる。ブ男に拍車がかかる。東京羊羹を食べる。身長百六十九センチ。東京羊羹を食べる。体重七十八キロ。東京羊羹を食べる。頭頂部がやや禿げている。糖尿病。東京羊羹を食べる。ブ男に拍車がかかる。東京羊羹を食べる。



「表札」石垣りん


自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。

病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。

旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼き場の鑵にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない、

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない 
石垣りん
それでよい。





「祝婚歌」吉野弘



二人が睦まじくいるためには

愚かでいるほうがいい

立派すぎないほうがいい

立派すぎることは

長持ちしないことだと気付いているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

二人のうちどちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気付いているほうがいい

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には

色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

そして

なぜ胸が熱くなるのか

黙っていても

二人にはわかるのであってほしい





「多面的真理に関するテーブルポエム」 谷川俊太郎



結婚は鍋である
どんな鍋かとは問わないでほしい
べつに結婚は帚である
といってもかわりはないのだから
もし私がかさにかかって
結婚は枕である タンスである 餅網である
と言いつのってもそれは
結婚は物にまぎれて救われるという
一面の真理を言うにすぎない

結婚は愛である
どんな愛かは棚に上げておいてほしい
べつに結婚は愛ではない
と言っても嘘にはならないのだから
もし私がしたり顔で
結婚は信頼である 忍耐である 寛容である
と並べたててもそれは
結婚は感情のプロレスやさかいという
一面の真理を言うにすぎない

結婚はハンコである
どんなハンコかは当人たちにおまかせする
べつに結婚は紙切れである
といってもかまわないのだから
もし私が苦虫かみつぶして
結婚は制度である 秩序である 永遠である
と説教したところでそれは
結婚はゆびきりげんまんの一種なりという
一面の真理を言うにすぎない

ところでここだけの話だが実は
結婚とはせま苦しいベッドで夢うつつに
毛布を奪いあうこと以上でも以下でもない
そのことの有難さを身にしみて知るには
一年では足りない 十年でも足りない
ともあれ一人の男と一人の女が
ブラック・ホールにもはまりこまずに
顔つきあわせて、茶漬けなどかっこむ図は
この世とあの世を結ぶマンダラの
欠くことのできぬ細部であると
そう申し上げることに私はやぶさかではない


<谷川俊太郎『詩を贈ろうとすることは』 創美社 より>



「くじら釣り」ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)



くじらを釣りに、くじらを釣りに、

けわしい声で 親父が言った、

箪笥の前にねそべった息子のプロスペルに、

くじらを釣りに、くじらを釣りに、

お前、行きたくないのかい、

どうしてさ、

どうして けものを 釣りに行くのさ、

ぼくにわるさをしないけものを、

パパ行きなさい、パパひとりで行きなさい、

ぼく 家にいる かわいそうな母さんと、

いとこの ガストンと。

するとおやじはくじら舟で ひとりぼっちで出かけて行った、

荒れくるう海の上・・・

ほら 今 おやじは海の上、

ほら 今 息子は家のなか、

ほら 今 くじらが怒りだした、

ほら 今 ガストン お皿をひっくり返した、

お皿のなかのスープをこぼした。

海は大荒れ

スープはすてき、

プロスペル 椅子にこしかけ くよくよと、

くじらを釣りに、ぼく行かなかった、

どうして 釣りに 行かなかったのさ

ほんとにくじらをつかまえたら、

ぼくはくじらを食べちゃうのに、

するとそのとき、扉があいて、全身ずぶぬれ、

息を切らしたおやじの姿、

ひっかついでたくじらを

テーブルに投げ出した、きれいなくじら、青い目の、

ほんとにきれいなけだもので、

みじめな声で おやじが言った、

はやくはやく、切っとくれ、

腹へった、喉かわいた、食べたいよ。

そこでプロスペル立ち上がり、

おやじの 青い色の目を、

しろめをむいてにらみつけ、

どうして ぼくはわるさをしない かわいそうな けものを切るのさ。

ぼくはいやだよ、やめたっと、

そして ナイフを 床に投げ捨てると、

くじらはそれをひっつかみ、おやじ目がけてとびかかり、

おやじのからだにずぶりと突き刺す。

ああら、ああら、とガストンがいう、

まるでちょうちょ、ちょうちょの標本みたい、

こうして

プロスペルは死亡通知を出し、

母親はあわれな夫を悼んで喪服を着る、

くじらは涙をいっぱいうかべ、悲歎にくれた一家をながめ、

いきなり叫ぶ、

どうしてぼくは殺したんだ、こんなかわいそうな男、

今度はほかの人間が、発動機船でぼくを追っかけ、

ぼくの一家はみなごろしだ、

それから、ぞっとする声で わらって、

くじらは 出て行きしなに

未亡人に、

奥さん、だれかが ぼくを 殺しにきたら、

お願いです こう言って下さい、

くじらは出て行きましたよ、

おすわりなさい、

お待ちなさい、

あと十五年、そしたらきっと帰ってきます・・・




「鳥の肖像を描くには」ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)


まず鳥籠を描くこと
扉は開けたままで
つぎに書く
鳥にとって
なにかここちよいもの
なにかさっぱりしたもの
なにか美しいもの
なにか役立つものを...

つぎにカンバスを木にもたせかける
庭のなかの
林のなかの
あるいは森のなかの.

木のうしろに隠れる
一言もしゃべらないで
動かずに...

ときには鳥はすぐ来る
だが長年かかることもある
その気になるまでに.

がっかりしないこと
待つこと
必要なら何年でも待つ.
鳥の来るのが早いかおそいかは
何の関係もないのだから
絵の出来ばえには.

鳥が来たら
来たらのはなしだが
完璧に沈黙を守ること
鳥が鳥籠に入るのを待つこと
鳥が入ったら
そっと筆で扉を閉める
そして
柵を一本一本すべて消す
鳥の羽に決して触れないように気をつけて.
つぎに木の肖像を描く
鳥のために
いちばん美しい枝をえらんで.

みどりの葉むれや風のさわやかさも描く
日ざしのほこりも
夏の暑さのなかの虫たちの声も.

それから待つこと 鳥がうたう気になるのを.

もし鳥がうたわないなら
それは良くないサイン(しるし)
絵が良くないというサイン
しかしもしうたったらそれは良いサイン
きみがサインしてよいというサイン
そこできみはそっと抜く
鳥の羽を一本.

そして絵の隅に君の名を書く。