「終電車の風景」鈴木志郎康


終電車の風景
鈴木志郎康


千葉行の終電車に乗った

踏み汚れた新聞紙が床一面に散っている

座席に坐ると

隣の勤め帰りの婆さんが足元の汚れ新聞紙を私の足元にけった

新聞紙の山が私の足元に来たので私もけった

前の座席の人も足を動かして新聞紙を押しやった

みんなで汚れ新聞紙の山をけったり押したり

きたないから誰も手で拾わない

それを立ってみている人もいる

車内の床一面汚れた新聞紙だ

こんな眺めはいいなァと思った

これは素直な光景だ

そんなことを思っているうちに

電車は動き出して私は眠ってしまった

亀戸駅に着いた

目を開けた私はあわてて汚れ新聞紙を踏んで降りた

「ひとつでいい」トーマ・ヒロコ

ひとつでいい
トーマ・ヒロコ


挨拶はひとつだけでいい
おはようも
ありがとうも
さようならも
おやすみも
もう要らない

朝一番の学校で
「お疲れ」と声をかけてきた同級生
起きるだけで
ご飯を食べるだけで
消耗するエネルギー
バスに揺られて化粧して
何度か停車をくり返し
やがて見えてくる校舎
バスを降りた瞬間
家に帰りたくなる

初デートの帰り道
家まで送ってくれた彼氏の「お疲れ」
スカート、目力(めぢから)主張、鈴のような笑い声
慣れないことから
もうすぐ解放される
しかしまだ油断はできない
彼の車が左折するまで
笑顔で見送らなくてはならない
左折すれば
彼もホッとため息つくだろう

家でごろごろするだけの休日でも
夕方になれば
肩が凝り
脚がむくんで
目がしょぼしょぼする

おはようも
ありがとうも
ごめんなさいも
さようならも
おやすみも
もう要らない
この世を生き抜くためには
挨拶はひとつでいい
「お疲れ」だけで事足りる

「骨のうたう」竹内浩三

戦死やあわれ

兵隊の死ぬるや あわれ

遠い他国で ひょんと死ぬるや

だまって だれもいないところで

ひょんと死ぬるや

ふるさとの風や

こいびとの眼や

ひょんと消ゆるや

国のため

大君のため

死んでしまうや

その心や


白い箱にて 故国をながめる

音もなく なんにもなく

帰っては きましたけれど

故国の人のよそよそしさや

自分の事務や女のみだしなみが大切で

骨は骨 骨を愛する人もなし

骨は骨として 勲章をもらい

高く崇められ ほまれは高し

なれど 骨はききたかった

絶大な愛情のひびきをききたかった

がらがらどんどんと事務と常識が流れ

故国は発展にいそがしかった

女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ

兵隊の死ぬるや あわれ

こらえきれないさびしさや

国のため

大君のため

死んでしまうや

その心や

「いつ立ち去ってもいい場所」谷川俊太郎

いつ立ち去ってもいい場所
谷川俊太郎



何をしに来たのかもはっきりせずにぼくはここへやって来て

見様見真似でいつの間にか大人になった

掛け値なしに好きでたまらないものももちろんあるけれど

それは風のように一刻もここにとどまっていない


電気スタンドのスイッチを直していて思ったことがある

ぼくをここに結びつけているものはこのスイッチひとつで十分だと

人間の作り出した小さな物が正常に動くこと

それがぼくにとっては何にも変えられない喜びだ


金属や木や硝子で作られたものは明瞭な輪郭をもっているが

人のうちに隠れているあの図りがたい何かにはどんな輪郭もない

だがそれは途方もない力でぼくをここに閉じこめ

同時にどこかへ追放しようとする


もみくちゃにされながらぼくは驚く

人の手で作られた小さな物が泰然としてここにあることに

それがそんなにもはっきりした目的を持っていることに

ここがいつ立ち去ってもいい場所のように思えることがある