「海に住む少女」ジュール・シュペルヴィエル

この海に浮かぶ道路は、いったいどうやって造ったのでしょう。どんな建築家の助けを得て、どんな水夫が、水深六千メートルもある沖合い、大西洋のまっただなかに、道路を建設したというのでしょう。道に沿って並ぶ赤レンガの家、いえ、もうすでに色あせてフランス風のグレーになっていたけれど、この家や、スレートやかわらで出来た屋根や、地味でかわりばえのしないお店はいったい、どうやって? あの小窓がたくさんついた鐘楼はどうやって? たぶんガラス片のついた塀に囲まれた庭だったのだろうけれど、今や海水でいっぱいになっていて、時たま塀の上を魚が跳ねたりする場所は、誰がどうやって?
波に揺さぶられることもなく、建物がみんなちゃんと建っているのはどうして?
そこにまったくのひとりぼっちで暮らす、十二歳くらいの少女。海水のなかの道を、ふつうの地面みたいに、すたすたと木靴で歩いてゆくこの少女は、いったい?
 眺めているうちに、わかるにつれて、おいおいお話しするつもりですが、謎のままであるべきことは、そのままにしておくしかありません。
 船が近づくと、まだ水平線にその姿が見えないうちから、少女はとても眠たくなって、町はまるごと波の下に消えてしまいます。だから船乗りたちは、望遠鏡の先にすらこの町を見たことがなく、町があるなんて考えたことさえないのです。
少女はこの世に、自分以外にも女の子がいるなんて知りませんでした。いえ、そもそも自分が少女であることすら、知っていたのでしょうか。

とんでもない美少女、というわけではありませんでした。前歯にちょっと隙間がありましたし、鼻もちょっと上向きでしたから。でも、肌は真っ白で、そのうえに少しだけ、てんてんがありました。まあ、そばかすといってもいいでしょう。ぱっちりというわけではありませんが、輝く灰色の瞳が印象的なこの少女、灰色の瞳に動かされているようなこの少女の存在に気がついたとき、あなたは時間の底から大きな驚きが湧き上がり、身体をつらぬき、魂にまで届くのを感じることでしょう。
この町でたった一人のこの少女は、時おり、まるで誰かが手を振ったり、会釈をしてくれたり、何か挨拶をしてくれるのを待っているかのように、道の左右を眺めます。でも、それはそんなふうに見えるだけのこと。少女にそんなつもりはないのです。だって、この誰もいない町、今にも消えてしまいそうなこの町では、何も、そして誰も、やってくるはずなどないのですから。
少女は、どうやって生活しているのでしょう。魚を釣っている?  そんなことはないでしょう。食べ物は、台所の棚や食料庫にありました。二、三日にいっぺんは、お肉もありました。じゃがいもや、そのほかの野菜、卵もときどき、そこに入っていました。
食料は棚のなかに、自然と湧いてくるのです。そして、少女がびんを開けてジャムを食べても、ある日そうだったのとまったく同じように、すべてのものは永遠にそのままであるかのように、ジャムは開封前の状態に戻ってしまうのです。
朝には焼きたてのパンが半リーヴル(約二五〇グラム)、包装紙に包まれて、パン屋の大理石のカウンターに置かれています。カウンターの向こうには、いつ見ても誰もいません。パンを少女に差し出す手や、指先が見えるわけでもありません。
少女は朝早くに起きて、お店のシャッターを上げてまわります(シャッターには、居酒屋の看板もあり、鍛冶屋やパン屋、小間物屋などと書いてあるのです)。すべての家のよろい戸を開け、海風が強いので、きっちり留め金をかけてゆきます。お天気しだいで窓を開けることもあります。いくつかの家の台所でかまどに火を起こし、三、四軒の屋根から煙が立ち上るようにします。
日暮れの一時間前になると、あたりまえのように、よろい戸を閉めてまわります。そして、シャッターを下ろすのです。
少女はこの役割を、本能のままに、何もかもきちんとしておかなければならないという日々の思いに動かされて、黙々とこなしています。あたたかな季節には、窓に敷物を干したり、洗濯物を出したりもします。まるで、何とかこの町に生活感を出そうと、少しでも誰かがいるみたいに見せようとしているかのようです。
祝日に掲揚する町役場の旗のことも、一年じゅうずっと、気にかけていなければなりません。
夜になるとロウソクをともしたり、ランプの明かりで縫い物をしたりします。町には電気のある家が何軒かあり、少女は愛らしく気取らぬ様子で、電気のスイッチに手をやるのでした。
あるとき、少女はある家の扉のノッカーに喪章を結びました。何だかいいなと思ったのです。
少女は、二日間そのままにしておいてから、喪章を隠しました。
また別のあるとき。少女は、なんと、太鼓をたたき始めました。皆にニュースを知らせてまわるかのようです。少女は海の向こうまで聞こえるように、むしょうに何か大声で叫びたくなったのです。でも、のどが詰まり、声はでてきませんでした。あんまり声をだそうとがんばったので、ついには、顔や首が血の気を失い、溺死体のような色になってしまったほどです。結局、太鼓をいつもの場所、町役場の大広間の奥、左側の隅っこに戻さねばなりませんでした。
少女は、螺旋階段を使って、鐘楼に登りました。誰の姿も見たことがないのに、階段は多くの足で踏まれて磨り減っていました。鐘楼の階段は五百段あるはずだと、少女は思っていました(実際には九十二段でしたが)。鐘楼からは、レンガ造りの建物のあいだから見るよりも、ずっと広い空を眺めることができます。それに、朝と晩、正確に時刻を告げてもらうには、ねじを巻き、大きな柱時計を満足させなければなりません。
納骨堂、裁断、暗黙の秩序を迫る石造りの聖人像。きちんと並び、老若男女の訪れを待っている、今にもおしゃべりが聞こえてきそうな椅子の列。金色の飾りは古び、これからもこのまま朽ちてゆきそうな祭壇。そのどれもこれもが、何だか気になって、でも怖くもありました。だから、少女は一度も礼拝堂には入ったことがありませんでした。時おり、暇なときに布張りの扉を細く開け、息をころしたまま中にちらりと目をやるだけで充分でした。
少女の部屋にある衣装箱には、家族手帳や、ダカール、リオデジャネイロ、香港からの絵葉書が入っていました。絵葉書には、シャルル、もしくは、C・リエヴァンという署名があり、スティーンヴォルドという住所が書いてありました。でも、海のただなかに住むこの少女は、これらの遠い国のことも、シャルルやスティーンヴォルドが何なのかも知りません。
棚には写真アルバムもありました。そのなかの一枚には、海に住むこの少女と、よく似た少女が写っていました。少女はこの写真をみると、しばしば何だか居たたまれない気分になりました。何だか写真のなかの少女のほうが正しいような、本物のような気がするのです。
写真のなかの少女は輪回しの輪をもっていました。少女は、同じような輪をもっていました。少女は同じような輪を町じゅう探しまわりました。ある日、ようやく見つかりました! ワイン樽のたがに使われている鉄の輪です。でも海のなかの道を、輪を追いかけて走ってみても、輪はすぐに沖に流されていってしまうのです。
別の写真では、少女の両側に、水平の服を来た男のひとと、よそゆきの服を着た、か細い女のひとが立っていました。海に住む少女は、男のひとも女のひとも見たことがなかったので、このひとたちはいったいなぜこうしているのだろうと、ずっと不思議に思っていました。真夜中にふと、まるで雷に打たれたようにはっとする瞬間でさえ、それが気になっているのでした。
少女は、毎朝、ノートや文法書、算数、歴史、地理の教科書がつまった大きなランドセルを背負って、町の学校に行きます。
フランス学士院の会員であるガストン・ボニエ、サイエンス・アカデミーの受賞者であるジョルジュ・レイヤンの共著、一般的な植物から薬草、毒草まで、八百九八の図説が入った植物図鑑もあります。
少女は植物図鑑の序文を読み上げます。
「あたたかい季節のあいだ、野原や森は植物にあふれ、じつに簡単にたくさんの種類の植物を集めることができます」
歴史、地理、いろんな国のこと、偉人たちのこと、山や河、国境のこと。大西洋でいちばん孤独な少女に、誰もいない道ばかりが続く小さな町しか見たことがない少女に、どうやってそれを説明すればいいのでしょう。
そもそもその大西洋でさえ、地図に載っている大西洋が、今まさに自分のいる場所だなんて、少女はわかっていないのです。いえ、ほんの一瞬だけ、そんなことを想像した日もありました。でも、そんなの馬鹿げているし、危険すぎると思ってあわてて打ち消したのです。

とりあえず、目に見えない先生が書き取り問題を出しているみたいに、少女はしばらくじっと動かずに耳をすまし、それからいくつかの言葉を書き取り、また耳をすまし、また書き始めます。それからいくつかの言葉を書き取り、また耳をすまし、また書き始めます。それから文法書を開き、しばらくのあいだ息をつめて、60ページの例題168に見入っていました。
少女は、この問題が好きなのです。まるで問題集が言葉をもち、少女に直接話しかけてくれているような気がするからです。
「あなたは……ですか」「あなたは……思いますか」「あなたは……話しますか」「あなたは……ほしいですか」「……声をかけるべきですか」「いったい……あったのですか」「……責めているのですか」「あなたは……できますか」「あなたは……しでかしたのですか」「……問題ですか」「このプレゼントを……もらいましたか」「あなたは……つらいのですか」(必要な助詞を補いながら……の部分に適切な疑問題名詞を入れなさい)


時おり、少女はどうしても、何か文章を書かずにいられない気分になります。そして、一生懸命に文字をつづります。
いろんなことを書くのですが、そのなかの一部を見てみましょう。
「これを二人で分けましょう。どうですか」
「聞いてください。おかけください。動かないでください。おねがいです」
「もしわたしに高山の雪がひとかけらでもあれば、一日があっという間に終わるのに」
「泡よ、泡よ。わたしのまわりの泡よ。もっと硬いものになれないの?」
「輪になるには、最低、三人がひつようだ」
「埃の舞う道路を、顔のない二つの影が逃げ去ってゆきました」
「夜、昼、昼、夜、雲、それから飛び魚たち」
「何か物音が聞こえたように思いましたが、海の音でした」
町のこと、自分のことを手紙に書くこともありました。誰かに宛てて書くわけではありません。手紙の末尾に「あなたにキスを」とは書きませんし、封筒には宛名もありません。
手紙を書き終えると、海に投げます。――別に捨てるわけじゃありません。ただ、こうするべきだからです――もしかすると難破船の船員が、すがる思いで最後のメッセージをびんに詰め、波に託すようなものかもしれません。
海に漂う町では、時間がとまっています。少女はいつまでも十二歳のままです。いくら自室の鏡のまえで胸を反り返らせてみても、大きくなりはしないのです。
ある日、アルバムの少女とそっくりの三つ編みや広いおでこが嫌いになり、自分や写真に腹が立ってきました。そこで、少しでも大人っぽく見えるように乱暴に髪をふりほどき、肩にたらしてみました。もしかすると、まわりに広がる海も何か変わるのではないかしら。真っ白いひげの大きなヤギが海から現れ、様子を見に来るのではないかしら。
でも大西洋にはあいかわらず何の気配もなく、少女のもとを訪れたのは、いくつかの流れ星だけでした。
ある日、まるで運命のいたずらのように、運命の確固たる意志にほころびが生じたかのように、変化が訪れました。小さな本物の貨物船がもくもくと煙を吐きながら、ブルドックのように強引に、荷が重いわけでもないのに(日の光をあびて、喫水線の下の赤い部分が帯のように見えていました)、大波に揺らぐこともなく、少女の住む町の道を通り過ぎていったのです。しかも、家並は海中に消えることなく、少女が睡魔に襲われることもありませんでした。
ちょうど正午でした。貨物船はサイレンを鳴らしました。でも、サイレンが町の鐘とまじりあうことはありませんでした。二つの音はまったく別々に鳴り響いていたのです。
少女は、生まれて初めて人間が鳴らした音を耳にし、窓にかけよると、大声で叫びました。
「助けて!」
そして、学校で使うエプロンを船にむかって振りました。
舵手は振り返ろうとさえしませんでした。ひとりの水夫が、煙草をふかしつつ、何事もなかったように甲板を通り過ぎます。他の者たちも、洗濯の手をやすめようとしません。船首では、先を急ぐ貨物船のために、イルカたちが左右によけて道を譲っています。
少女は道に飛び出し、身を伏せるようにして、路上に残った船の航跡を抱きしめました。ずっとそうしていたので、少女が立ち上がる頃には、その航跡も海の一部へと戻り、もう何の名残も感じられないまっさらの海になってしまうのでした。
家に帰り、少女は自分が「助けて」と叫んだことに愕然としました。そのとき初めて、この言葉が本当は何を意味しているのか、理解したのです。
その意味に気がつくと、怖くなりました。あのひとたちには、あの声が聞こえなかったのでしょうか。船乗りたちは、耳が聞こえなかったのでしょうか。目が見えなかったのでしょうか。それとも、海の深さよりもずっと残酷なひとたちだったのでしょうか。
そのとき、これまでは町から距離をおき、どうみても遠慮していたと思える波が、少女のもとに流れ込んできました。大きな大きな波は、他の波よりもずっと遠くまで左右に広がってゆきました。波のてっぺんには、白い泡でできた本物そっくりの眼がありました。
 波は、あることに思いあたり、そのままにしておけないという様子でした。一日何百回と生まれては崩れてゆく波ですが、いつでも必ず、同じ位置にはっきりと眼をつけておくことを忘れませんでした。時おり、波は何かに気をとられ、自分が波であること、七秒毎に繰り返さねばならないことを忘れて、波頭のまま宙に一分近くもとどまることもありました。
じつは、この波、ずいぶん前から少女のために何かしてあげたいと思っていました。でも、何をすればよいのかわからなかったのです。波は、貨物船が遠ざかるのを目にし、取り残された少女の苦しみに気がつきました。我慢できなくなった波は、無言のまま、少女の手を引くようにそこからほど遠からぬ場所につれてゆきました。
波は波のやり方で少女の前にひざまずくと、大事に大事に、少女を自分の奥深くに抱きかかえました。そのままずっと少女を抱きしめ、死の力を借りて、連れ去ってしまおうとしたのです。少女自身も息をとめて、波の考えた重大な計画に従おうとしました。
ついに命を奪えないまま波は少女を空高く、海燕ほどの大きさに見えるほどまで突き上げました。そのまま、ボールのように落ちてきた少女を受け止め、突き上げ、受け止めてと繰り返しました。少女は、ダチョウの卵のような大きな泡が散らばるなかに落ちてきました。
結局、何ごとも起こらず、少女を死にいたらせることができないとわかると、波は何度も何度も涙で詫を囁きながら、少女を家に送り届けました。
かすり傷ひとつ負わなかった少女は、何の希望もないままよろい戸の開け閉めを続け、水平線に船影が浮かぶやいなや、海のなかに消えてゆく生活に戻りました。

沖合で、手すりにひじをつき、物思いにふけるそこの水兵さん、夜の闇のなかで愛するひとの顔をじっと思い浮かべるのも、ほどほどにしておいてくださいな。あなたのそんな思いから、とくに何もないはずの場所に、まったく人間と同じ感性をもちながら、生きるのも死ぬのもままならず、足することもできず、それでも、生き、愛し、今にも死んでしまいそうであるかのように苦しむ存在が、生まれてしまうかもしれないのです。海の孤独のなか、なんのよりどころも持たない存在が、生まれてしまうかもしれないのです。海の孤独のなか、なんのよりどころも持たない存在が生まれてしまうかもしれないのです。そう、この大西洋のなかに住む少女のように。
少女は、ある日、四本マストの船アルディ号の船員、スティーンヴォルド出身のシャルル・リエヴァンの思いから生まれました。十二歳の娘を失った船乗りは、航海中のある晩、北緯五十五度の位置で、死んだ娘のことを、それはそれは強い力で思いました。それが、少女の不運となったのです。


原題: L'enfant de la baute mer
Jules Supervielle
1931年発表

「スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ」 スティーブ・ジョブズ

世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。実のところ、きょうが人生でもっとも大学卒業に近づいた日です。本日は自分が生きてきた経験から、3つの話をさせてください。たいしたことではありません。たった3つです。


まずは、点と点をつなげる、ということです。

私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。

私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。

ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」と。両親は「もちろん」と答えました。

生みの母は、後々、養子縁組の書類にサインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではありませんし、父に至っては高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。

そして17年後、私は本当に大学に通うことになりました。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。

そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。当時は人生で何をしたらいいのか分からなかったし、大学に通ってもやりたいことが見つかるとはとても思えませんでした。

私は、両親が一生かけて蓄えたお金をひたすら浪費しているだけでした。私は退学を決めました。何とかなると思ったのです。多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。退学を決めたことで、興味もない授業を受ける必要がなくなりました。そして、おもしろそうな授業に潜り込んだのです。


とはいえ、いい話ばかりではありませんでした。私は寮の部屋もなく、友達の部屋の床の上で寝起きしました。食べ物を買うために、コカ・コーラの瓶を店に返し、5セントをかき集めたりもしました。温かい食べ物にありつこうと、毎週日曜日は7マイル先にあるクリシュナ寺院に徒歩で通ったものです。

それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大学では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができました。

キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。


もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしませんでした。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。

美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。


繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかありません。

運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。



2つ目の話は愛と敗北です。


私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。

共同創業者のウォズニアックとともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。

そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。

実は会社が成長するのにあわせ、一緒に経営できる有能な人材を外部から招いたのです。

最初の1年はうまくいっていたのですが、やがてお互いの将来展望に食い違いがでてきたのです。そして最後には決定的な亀裂が生まれてしまいました。そのとき、取締役会は彼に味方したのです。それで30歳のとき、私は追い出されたのです。それは周知の事実となりました。私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。これは本当にしんどい出来事でした。


1カ月くらいは呆然としていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことをお詫びしました。

公然たる大失敗だったので、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。
自分が打ち込んできたことが、やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度挑戦しようと思えるようになったのです。

そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。


その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。
そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。

アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。
非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。仕事は人生の一大事です。

やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。


3つ目の話は死についてです。


私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしています。

「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。


自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。
なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。

1年前、私はがんと診断されました。
朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。

医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。


一日中診断結果のことを考えました。その日の午後に生検を受けました。
のどから入れられた内視鏡が、胃を通って腸に達しました。膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したと妻がいうのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。

人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。

誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。
死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。

あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。
他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。

私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。


スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。

ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。
そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。


ハングリーであれ。愚か者であれ。

ありがとうございました。


※ スティーブ・ジョブズが2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ