「帰途」田村隆一


言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか


あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ


あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか


言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる

「灯(ともしび)」 茨木のり子

人の身の上に起こることは
我が身にも起こりうること

よその国に吹き荒れる嵐は
この国にも吹き荒れるかもしれないもの

けれど想像力はちっぽけなので
なかなか遠くまで羽ばたいてはゆけない

みんなとは違う考えを持っている
ただそれだけのことで拘束され

誰にも知られず誰にも見えないところで
問答無用に倒されてゆくのはどんな思いだろう

もしも私が そんな目にあったとき
おそろしい暗黒と絶望のなかで

どこか遠くにかすかにまたたく灯がみえたら
それが少しづつ近づいてくるように見えたら

どんなにうれしくみつめるだろう
たとえそれが小さな小さな灯であっても

よしんば
目をつむってしまったあとであっても