「いつ立ち去ってもいい場所」谷川俊太郎

いつ立ち去ってもいい場所
谷川俊太郎



何をしに来たのかもはっきりせずにぼくはここへやって来て

見様見真似でいつの間にか大人になった

掛け値なしに好きでたまらないものももちろんあるけれど

それは風のように一刻もここにとどまっていない


電気スタンドのスイッチを直していて思ったことがある

ぼくをここに結びつけているものはこのスイッチひとつで十分だと

人間の作り出した小さな物が正常に動くこと

それがぼくにとっては何にも変えられない喜びだ


金属や木や硝子で作られたものは明瞭な輪郭をもっているが

人のうちに隠れているあの図りがたい何かにはどんな輪郭もない

だがそれは途方もない力でぼくをここに閉じこめ

同時にどこかへ追放しようとする


もみくちゃにされながらぼくは驚く

人の手で作られた小さな物が泰然としてここにあることに

それがそんなにもはっきりした目的を持っていることに

ここがいつ立ち去ってもいい場所のように思えることがある





「倚りかからず」茨木のり子


もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ