「このたたかいがなかったら」覚和歌子


このたたかいがなかったら
子どもは物売りに出かけずにすんだ
毎日欠かさず学校へ通えた

けれどこのたたかいがなかったら
家族を残してやってきた異国の兵士と
友だちになることはできなかった

このたたかいがなかったら
恋人たちははなればなれにならなかった
さびしさで胸をかきむしることもなかった

このたたかいがなかったら
今ごろつつましい結婚式をあげていた

けれどこのたたかいがなかったら
いのちとひきかえに深まる愛を
知らないままで老いたかもしれない

このたたかいがなかったら
町一番の食堂もこわされなかった

ひとのにぎわいも続いていて
働き口にもこまらなかった

けれどこのたたかいがなかったら
世界はこの国をかえりみなかった
国の名前さえ思い出さなかった

このたたかいがなかったら
死ななくてすむ子どもがいた
死ななくてすむ親がいた
そしてこのたたかいがなかったら
私はここに来なかった

混乱のまっただなかにも
子どものはじける笑顔があることと
それに救われるかなしみがあることを
たぶん死ぬまで知らずにいた

「帰途」田村隆一


言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか


あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ


あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか


言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる